目の前の山羊を食べる いただきますの意味
山羊牧場で山羊を食べることになった。
いま、里帰り中の妻子。
仕事の休みを利用して、久しぶりに尋ねてみた。
4歳の上の子を連れて、近所に散歩に行くことになった。
近くに山羊が見れる牧場があると聞いたので行ってみた。
車が通れるかどうかの細い田舎道を10分ほど歩いた田舎の中の山の中に、それはあった。可愛い山羊たち。子山羊もたくさんいた。
一通り牧場内を見終わったころ、小さなお店を見つけ、入口に「山羊祭り」という文字を見つけた。
今日は、不定期で開催される山羊肉を食べられる日だった。
珍しいモノ好きの私は、一皿500円の山羊パスタを頼んでみた。
普段、料理を出している訳ではないお店で営業しているからなのか、待てども待てども出てこなかった。
そこで…
娘に食育をすることにした。
◆ いただきますという意味が、命をいただくという意味だということ
◆ 人間を含めた全ての生き物は、産まれた瞬間から生き物(植物を含む)を殺して食べなければ生きられないこと。
◆ 同じく人間を含めた全ての生き物は、死んだら食べられるということ。
◆ それが当たり前でそれが自然なのだと。
◆ 今から来る肉料理は、つい先日までは「さっきまで見てきた山羊たち」と一緒に生活していた山羊を殺して料理したものであること。
などなど。
◆ 牛肉は牛。豚肉は豚。鶏肉は、鶏。卵は、ひよこの元だとか。
※ 私のスタンスは、植物と動物はともに同じ生き物だと考えています。ご了承ください。
食事前後の挨拶「いただきます」「ごちそうさま」や、残さずに食べるということにどういう意味があるのか。
スーパーにきれいに並んでいる肉や野菜が、誰に育てられ誰に収穫されて並んでいるのか。
少しずつ全体像を教えていきたい。
本当に大切なこと、伝えるべきことは何か。
よく、「子ども達に本当に伝えなければいけないことは何なのか」を考える。
会社帰りの家の最寄駅から家に着く間の徒歩15分程度が、基本的に「伝えるべきことは何か」を考える日課のような時間になっている。
過去1年間×15分の時間は、記録に残らずに流れていっているが、これからは少しずつこうやってまとめて、修正・改善を続けていこうと思う。
伝えるべきことはたくさんある。
特に幼少期は、大切なことを体験させ体感として正しいかどうかを判断させる必要があると強く思っている。
今回の「目の前の山羊を食べる」ということも然りである。
チャレンジ精神だとか、いわゆるグリッドだとか、学ぶ姿勢だとか、感謝・畏敬の念などもそうだ。が、今回は割愛する。少しずつ書いていきたい。
その中で今回取り上げたいのは、
① 全体観というもの
② 生態系の概念
③ 大切な人を幸せにするということ
全体観。
それはつまり、時間軸・空間軸で見たときに人間がいかにちっぽけな存在であるかという言うこと。
時間的には、地球が産まれたときは、生物なんていなくてとっても熱かったとか。紆余曲折の中で人類が産まれ、産業が発展し今があること。と言ってもその辺りはしっかりはイメージできないだろうから、スマホがちょっと前まではなかったとか、電気ができたのはつい最近だとか、ひいおじいちゃんの時代は山や川でもご飯を取ってきていたとか。
同時に空間的な視点でいうと、県があり、国があり、地球があり、月があり、太陽があり、銀河系があり。。。まずは、どこが中心だと思う?という話から、月は地球を中心に回っている、地球は太陽を中心に回っているという話をして、実はそれも別の星を中心に回っている。
要は、「今」や「現代」という時間がどれだけ短いもので、「自分」や「自分に見える世界」がどれだけ狭いものかを認識させたい。
「ちっぽけな自分」に対して、未知なる世界というものを感じさせて、そこに対する好奇心や多種多様なものへの畏敬の念・感謝の念を育てたい。
※ 本当は、ここに影響の輪・信頼の輪・人間社会という概念が入ってくると思っているのですが、面倒なので今日は割愛します。
国語・算数・理科・社会なんて、自分で本を読めば理解できると思っている。
外部の世界に対する自分の立ち位置を見誤ったまま勉強しても、何の価値もない。限られた人生の時間の無駄使いだとしか思えない。
だから、学校ではなぜか上手には教えてくれないけど、そういった全体観を小さいころから語りかけていきたい。
生態系。
地球の生態系の話は非常に大切だと思っている。
全ての生き物は、活かされ活かす関係になっていなければいけない。生態系に頂点なんて存在しない。先にも書いたが、食い、食われる関係。それが生態系の全てだ。と思っている。
何か一つの生物が、食われることを放棄したり、食うことを放棄したりすると、全ての調和に影響が出てくることなんて当たり前だと思う。
地球の環境が変われば、絶滅種が出て、適用した新種が出てくることも当然だ。
地球の環境を守るとか歪を是正するとかはまだよく分からない。特定の種を守ろうとする活動に関しても否定はしないが、積極的に応援ができるほど理解が深まっていないのが現状だ。
人間が産まれ、地球の状態が変わった。だから、生き残れる種と絶滅する種が大きく変わった。もしくは、変わろうとしている。そこまでは少しは理解しているつもりだ。
でも、それ自体が良いのか悪いのかは正直まだ分からない。千年後くらいの知恵を持った生命体が判断してくれるんだと思う。AIしかいないかもしれないが。。
ただ、1つ感じているのは、「私の子どもたちが生きていけないかもしれない」という恐怖。種の存続とか興味ない。私の子どもたちという軸で、これはだいぶ問題かもしれないと思う。
そういう意味で、20年後、30年後、40年後の生態系をキャッチアップしておきたい。それを理解するために、20年前、30年前と比較した今の生態系を理解しておきたい。
そして、それらをかみ砕いて子どもたちに伝えておく責任が親である私にはあると感じている。
それらを知る切り口の一つとして、SDGsは非常に面白い。
次の話題に移そう。
大切な人を幸せにするということ。
それは、
自分が影響できる範囲の「この人を大切にしようと判断した」人を徹底的に大切にしなさいということ。
その人は、時間とともに変わっても良いし、波があっても良い。大切にするやり方もたくさんある。ただ、自分なりの方法で良いから、「自分が影響できる範囲内に居る」大切だと思う人を大切にしなさい。ということ。
裏切られても何をされても、その人を信じ愛しなさいと言うこと。
まぁ要は、親が子を思う気持ちのことを書きたいのだ。でも、これは子どもじゃなくても当てはまると思う。
勝手な個人の価値観だが、人は誰かに影響できたという時に特に大きな人生の意味を感じられる気がする。守るべき誰か、大切にすべき誰かが居るということ、彼らに影響できたと感じたときほど、人生に意味を与えてくれた経験が私にないという、ただそれだけの理由だ。
私にとってそれは、第一に私の子どもたちであって、第二に妻である。
だから、私は、
「私の子ども・孫が、大人になったときに、わくわくドキドキするような世界を見せる」ということを人生の目的に掲げた。
それは、世界を変えるというよりは、彼らの世界を見る目をしっかりと誘導していくという意味だ。私の人生は、その一点に集中する。
2017年の夏、上記の結論に至るまでは、全てがふわふわしていた。
逆に上記の結論に至ってからは、全てがそこに集約され、全ての判断が少しずつクリアになってきている。
まだまだ不勉強すぎて分からないことだらけだが、少しずつこんな感じでまとめていけたらと思う。そして、いつか子どもたちにこのブログの存在を伝えたい。
書きながらも、たくさんの論理的な飛躍があることに気付いた。。。
書いてまとめるって大変だな。。それが、2記事目の感想。
少しずつ修正していこうと思った。