人生哲学① 正しいより楽しい道を進め
これは、パパのお母さんからもらった本に書いてあった言葉です。
そもそもその行動が正しいかどうかを、時間軸の中の現時点で行おうという発想自体がパパは嫌いだ。全ての判断は歴史とともに変わる。人によっても変わる。置かれている環境によっても変わる。全ては、あくまで現時点までの自分自身の人生によって培われた価値観で判断しているに過ぎない。
昔に比べて良くなったとか悪くなったとか、何言ってんの?って思ってしまっている部分がある。
20年前悪いと言われていたことが、10年前にはやはり良かったと言われ、現在ではやはり悪いのでは?みたいな議論がそこかしこから聞こえてきそうだ。
戦争は良くないとか語られるけど、戦国時代だってそうだったのにバッシングしないのはなぜなのか。歴史が変わった!とか名武将!とか、たくさん人を殺しているひとなのに。
戦時中の人は、大半の人が戦争万歳!とか言っていたんだ。正しいと思って必死で生きていた。
パパは戦争は嫌いだし怖いし死にたくないし、自分の大切な人にも死んでほしくないし、人を殺してほしくない。自分の関係の無い人でも、無力な子どもたちが大人たちの政治的な理由のためだけに殺されていくのなんて耐えられない。
でもね、戦場で人を殺している人たちにも、全員ではないかもしれないけど、大切な家族がいて人を殺したくないと思っていて、いつも死の恐怖と戦いながら武器を持っている人も居るんだよ。その人のことを大切に思って、応援して家で待っている人も居るんだよ。
「自分が目の前の人を殺さないと、家で待っている家族がいつか殺されてしまうかもしれない。」
たとえば、そんな思いで武器を持っている人のことを、パパは馬鹿にしたりなんてできないです。
その時代、その環境の中で、それが最善だったんだよ。
その武器を持って戦っている人も、パパも同じなんだ。
「家族が大切。子どもの未来を守りたい」
今の時代で、パパが何か家族の危機にさらされたなら、敵を殺すという手段以外でそれを達成したいとは思うけど、そういう選択肢が与えられない環境にいる人がたくさんいるっていうこと。
そして、それはパパやママのお爺ちゃんやお婆ちゃんもそうだったんだよ。
パパのお爺ちゃんもママのお爺ちゃんも戦争に参加している。具体的には聞いたことは無いけれど、きっと他の誰かに銃やミサイルなんかを向けていたと思う。
すごく優しいお爺ちゃんだったけどね。
お爺ちゃんたちから見ると、正しいことをするため、家族や国を守るために戦った。
1940年代とかは、一生懸命戦争することが正しかった。
1945年の敗戦以降、戦争はやはり悪かった、日本は間違っていたと言われてきた。
でも最近になって、あの戦争は誇りを守るためにやはり必要だったのではないかという人もいる。つまり、あのときに戦争をしなければ、日本や韓国などは当時残っていた植民地や奴隷制度に縛られて、今ごろアメリカで人権運動をしていたかもしれない。
パパは人を殺すこと自体は避けるべきだと思ってるけどね。
一人一人を見て、その人が「なぜ」そんな行動を取っているのかを常に感じるようにしてください。同じ行動でもなぜそんなことをしているのかで、その行動の意味も変わる。付き合う価値のある人なのかも変わる。色んな土地・色んな時代背景に置かれた色んな人と関わることで、色んな「なぜ」に触れてください。
その中で、きっと気づいてほしい。
誰から見ても絶対に「正しい答え」なんてないから。
あるのは「楽しいか楽しくないか」、「自分にとって大切なものを守れているかどうか」だけです。
君にとって、
本当の意味で楽しい時間ってどんな時ですか?
命に代えても守りたいものって何ですか?
もっと難しいことを言おう。
別にそれは時間とともに変わっても良いと思うよ。
その答えは、実は常に分かんなくて、常に悩んでいる状態が正しい状態だと思うよ。
パパにとっては、何をやっているかよりも、【誰】という軸の方が重要で
第一に、子どもたちの将来が大切で、一緒に成長していく過程が楽しい。君たちに追いつかれないように必死なんだ。
第二に、妻との人生が大切で、君たちの成長を一緒に見届けたい。君たちが独り立ちしたあとは、少しはのんびり楽しみたいね。
第三に、親族は僕の人生観に多大に影響してくれた。少しでも恩返ししたい存在です。
第四に、いつも一緒になって笑ってくれる友人や同僚は自分の「今」や「これから」を形作ってくれる。成長の機会をたくさんくれている。君たちに追いつかれないようにするために、切磋琢磨する関係を築きたいと思っている。教えてもらってばかりなんだけどね。
どんなときに楽しいと思えるのか、どんなときに悔しいと思うのか、どんなときに情けないのか、心底やばいと思う瞬間はどんなとき?
何かに迷ったら、周りの人や大人たちが、たかだか数十年生きてきた中で見出したちっぽけな論理よりも、君たちが肌で感じた「楽しい(自分にとって楽しい)」と思える法の道を選びなさい。何回失敗しても良いから。少なくとパパとママは、君たちが何回失敗しても、帰ってこれる場所を提供できるように準備しておくからね。
ただ、できれば死なないで欲しいね。リスクをどう取るかって、ほんとに難しいところだけど笑
悩んでいる暇があったら、何回失敗しても良いから動き続けなさい。
もしくはたくさんの本を読んで必死で勉強しなさい。
君たちがなんだか楽しそうだなと思う方に、幸せな人生があります。
中央集権はもう崩壊している
君たちがこれを読んでいるのは何歳になってからだろうか。
中央集権という言葉は、もはや歴史の教科書の話になっているかもしれないね。
この記事を書いている2019年現在やその前の話がメインになるけど、さらっと目を通してみると気づきもあるかもしれない。
パパが産まれたころや、もっと前は日本という国では、一部の人に権力が集中していた。
◆ 悪いことをすると取り締まる警察
◆ 火事が起きると火を消してくれる消防
◆ 負傷者が居ると助けに来てくれる救急隊
◆ お金を発行する日本銀行
◆ 人の行いの良し悪しを裁く裁判所
◆ 法律を作る国会
◆ 政策を執行する内閣
それぞれがとても立派な職業で皆の憧れで、新しい時代と今の安全な生活は彼らが作っていた。
それぞれに分担があって、その人たちが決めたことに、国民は従っていた。
それが正しいと信じられていたからね。
でも、どうもその人たちがやっていることが、正しいことばっかりじゃないぞ。
って、国民は近頃気づき始めてきたみたいだ。
2000年に入った頃からなのかな?
国民の安全・安心な生活は国が守ります!というスタンスだったが、営利・非営利関わらず民間も一緒になって切れ目なくフォローしないとどうにも立ち行かなくなっているんだ。
それが良いとか悪いとかじゃない。そういう時代というだけ。
たとえば、
◆ 生活に余裕のある人は警察だけに頼っていては安全な生活は保障されないからと、営利企業の警備会社さんに頼り切っている。
◆ 消防は火を消してくれるけど、火が発生しないようにはできない。火が発生しないように努力し、早期発見や逃げ方を誘導しているのは一般企業やNPO団体の方が光を浴びている。
◆災害現場で活躍しているのは、自衛隊の方もそうだけど、災害支援関連のNPOの方々も多大に貢献している。
◆ 救急隊が頑張っても肝心の病院が受け入れてくれない問題が頻発している。これはまだまだ民間との連携が必要な部分かもしれない。
◆ 循環する価値交換ツールを日本円に限定し厳しく取り締まってきた国も、仮想通貨に関してはもはや手を打てなくなった。つまり、極論民間の個人が通貨を発行できる状態になってしまった。規制はできつつあるけどね。大局的には、昔の藩札にあたる地域通貨を認める世論もでてきている。
◆ 裁判所は民意の反映という名のもとに、民間の方の判断を取り入れ始めた。過去に作り上げた論理だけでは、時代性を反映した良し悪しはもう判断できないんだ。
◆ 立法も行政も、経済活動の世界的な動向に多大に影響され、「日本は遅れている」という民意からのバッシングに対して十分な検証をせずに進められていっている。ように見える。
◆ 地方で起こる問題が複雑で多種多少になり、すでにどうにも手の施しようがない状態になってきたので、各自で頑張ってくれーという空気感になりつつある。
よく変化のスピードが速くなったから、考え方進め方を変えなければ行けないと言われいている。
新たに生まれた知見や情報は、瞬く間に拡散しその情報を有効活用してくれる方に届き、すぐさま化学反応が起こる。良い人に届けば良い化学反応が起こるし、悪い人に渡れば悪用されてしまう。
SNSを始めとして情報通信革命によって、情報は一瞬にして拡散される。
活用方法を知っている人に一瞬で届く。
その変化を活かすも殺すも手に入れるも見逃すのも、ほんとに一瞬の出来事のようだ。
そうなると、議論や検証している暇なんてない。
転ぶことを覚悟で、ひたすら知った情報から瞬時に発想して、トライしてみるしかない。転んでいいんだ。
10回チャレンジして、1回当れば勝てる。
大事なことは、転び方を早く覚えること。
再起不能になる前に、ミスったと気づいて、すぐに手を引く。
そして、また面白い変化が起きるのをアンテナを最大限に高くして待つ。
変化が来たと思ったら、飛びつく。
その繰り返しだ。波に乗っている人は皆、そうしてる。
たまたま当ったら、一回それを少しの期間温めよう。
そして、転んだときの杖を持ったら、また同じ繰り返し。
今までも原理は同じだったんだけど、情報伝達の速度は上がり、一部の人が情報の伝達速度の恩恵を受ける時代は終わったんだ。
アンテナさえ高くしておけば、小学生でも中学生でも高校生でも、このチャンスは掴める。
人的ネットワークではなく、インターネット上にあるコミュニティネットワークに深く入り込みなさい。
補足するが、超速のコミュニティネットワークは、信頼の人的ネットワークでクローズされていることも多い。
オフラインとオンライン。現実空間と仮想空間を行ったり来たりして補完しあってください。
今は、国よりも企業、企業よりも個人が、国の未来に向かう方向性に対して影響力を持っている。
企業と並列してNPO団体が台頭してきている。
企業は機械のようだ。NPOや個人が方向性を決めて、それを具現化するのが企業の役割になってきている。行政はさらにそのあとを追っている。
(昔からそうなのかな)
話を戻して、こんな時代にあっては、「ちょっとルールを整備しますので皆さんそれまでは競争を控えてください」なんてお達しが耳に入る隙があるわけがない。
むしろ中央の方々が、「何かが起こっているぞ」と気づくころには、大成功した人と大けがした人の両方が必ずすでに居るし、すでに出来上がったフィールドに合わせる形での法整備しかできないよね。
じゃぁ、、、中央は今後どうすれば良いの??
ここからはパパの持論です。
【1つ目の話】
もうルールを先行して作ろうとするのは諦める。
その代り、変化の芽を予測し、その分野において国の方向性を理解し超速で市場を固めてくれる信頼できるパートナーをあらかじめ握っておく。
逆に、信頼できない人を市場から予め排除するようにコントロールする。
良き判断をできるパートナーに伴走し、伴走しながら制度を固めていく。
【2つ目の話】
もう国が管理し裁くことを諦める。
その代り、民意が悪意を裁くシステムを作り上げる。
つまり何かが起きた時に、広く国民に対して、「この変化はこんなメリットがありこんなリスクがあります。こういう方向に進んでいくことが日本国として最良の方向です」と訴え続ける。
市場原理の中においては、国民の世論や購買意識がすべてを支配している。民意に対する影響力をもっとつけて、民を動かして民を取り締まり、市場を国として正しい方向に導く。
民意に影響力を持っているのも、特定の個人なのでその個人をひたすら追いかけ、国の方向性とその方の意見を合わせておく。
【3つ目の話】
もう手の届かない範囲の事象は民やNPOに任せる。
マイノリティの保護に関しては、法律を性善説に立ち徹底的に緩めつつ、その保護や世論形成活動は民に任せ、それを経営資源の面でフォローする。
革新的な方法の創出を促し、民で解決してもらわないと全ての人は救えない。
もっというと地球の環境保護も間に合わない。
全ての話に、司法・立法・行政が関わってくる来る気がする。
もはや中央に権力も影響力もない。三つに分かれて監視する必要もない。
民の意見が一番強いから。。
三権は一つになるべきで、司法立法行政の行ってきたことを三位一体で、まるっとまとめて最速で進めてほしい。
という変化が今後起きてきて、一度日本国の中央集権は再編成のときをむかえるのではないか。
というのが、2019年3月時点でのパパの読みです。
皆、気づいていて、パパが遅れてたりして。。
三権分立の参考資料
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/kokkai/kokkai_sankenbunritsu.htm
ブログ5本目。
書き始めたばかりなのに、もう若干疲れてる。
一本当たりの時間は、最初2時間以上かかっていたのが、今日のは1時間ちょっとくらい。
そのスピード感に意味はないけれど。
杞憂だけれど、炎上しませんように。。。
お金とは何か?① 本当に大切なこと
お金とは何か?
について、少しずつまとめていこうと思う。
お金に関して、色んな本を読んできたので、それらの本をまとめることもやっていきたいのだが、初めての今回は個人的に本当に大切だと思うことだけに絞って書いてみようと思う。
それ自体が、今後加筆修正されていくのだろうが。。
本当に大切な理解
4つの軸でかみ砕いて考えてみようと思う。
◆ お金はツールであって、目的においてはいけない。
◆ 価値の交換ツールはたくさんある。
◆ お金の歴史
◆ 指標としてのお金
分かっていたことだが書きだしたら止まらないし、まとまらない。
時間をかけて整理していこう
お金はツールであって、目的においてはいけない。
お金を集めるために働くというのは、絶対に避けなくてはいけない。
それは、ご飯を食べるために生きると言っているようなものだ。
よっぽどご飯を食べることが好きでご飯が食べられないなら死んでもよいと言い切れるならこの論理は正しいかもしれない。
でも普通は、生きるためにご飯を食べるのであって、ご飯を食べることを目指して生きている訳ではないはず。
お金を使ってご飯を食べないと生きていけないから、働いている(生きている)というのは、もはや機械と同じだ。働く目的が目的になっていない。。
生きていること自体の意味をちゃんと考えて考えて、それを見つけたあとに行きつく答えはこうだ。
働くために、お金が必要です。
働くとは、もともと自分の使命とも呼べるやりがいを感じられる活動のことだ。
人が本気で何か一つのことを極めようとしたら、それは必ず誰かのためになるし、必ずお金をもらえる。そこをどこまで深く信じられるかで入ってくるお金が変わる。
今も昔もこれからも何も変わらない。
商品やサービスだけじゃない、夢や希望やビジョンも十分にお金をもらっていい価値あるものなんだ。
夢や希望やビジョンは不確実性を伴うから、失敗して預かったお金を0にしてしまうこともあると思う。
そんなときは、また新しい夢や希望やビジョンを描き直したらいい。ただそれだけ。
お金を出してもいいと思う人が居たら、それらはまた価値を持ってお金に代わるから。
凄く説明が下手だと思う。。。
夢や希望やビジョンをしっかりと持てたとき、それらを達成するためにはお金がほぼ間違いなく必要になってくるだろう。
そのためにお金を集めるんだ。
そして、集めたお金を使って、目標に向かって活動していく過程で、その活動に価値を持たせるんだ。
何事も継続させるためにはお金が継続して入ってくる必要があるからね。
でも、どこから最初に敷いたレールから外れて、『お金目当て』の活動が入ってくると、全ての調和が崩れるよ。
ただひたすら夢に向かう。そのレールの上にある物を自然な形でお金に替えるんだ。
お金は、夢や目標を達成するために活動する(働く)ために、集めるんだ。
この順番を間違わなければ、一生お金に困ることはない。
これが、絶対的な富裕層の法則
価値の交換ツールはたくさんある。
最近よく思うことがある。
お金を持っていて、自由に暮らしている人、そんな人はそもそもお金を使っていないように見える。
本当の超億万長者の話だけど。
彼らは、彼らの存在自体が価値だから、たとえば彼らを30分お話できることが大金を払うくらいの価値がある。
でも彼らはそもそもお金はもう必要ないからお金ではなく、何らかの価値ある物をもらうんだ。
つまり彼らはそこに存在したり、話してあげたりする時間自体に価値があり、それを他の何か(お金ではないもの)と交換していたりする。
この場合は時間が交換されている。
他にも、頑張っている高校球児達に車の送迎という形で価値を提供したり、皆で集まった時にご飯を提供したり。楽しい時間を元手に他の価値をゲットしているんだね。
皆なぜか、大人になる過程でお金という物がすべての価値交換ツールとして認識し始める。
お金を持っている人が偉い人で、お金を持っていない人は悪い人みたいに。
何も原資が要らなくて、昔から変わらず価値があるものがあるとしたら、
それは、【人を惹きつける挑戦し続ける姿勢】だと思う。
これに勝る価値は無いのではないだろうか。
(自分自身もしっかりと忘れないようにしないと)
お金の歴史
お金の価値は、「今は」市場が決めていることになっている。
つまり、それを使っている人たちが同じ指標で価値があると信じているいるからそれに価値が生まれているっていうこと。
市場原理とか為替相場とか金利とか、色々言われているけど、結局は国は国でコントロールしようとしてたりもするけどね。
君らが大人になるころには大きく変わっていると思う。
今すでに中央集権は壊れているから。
お金の価値を国が決める(流通量を国が管理する)流れは、ここ百年とかそこらの話なんだよ。
それまでは「金(きん)」「銀(ぎん)」という物質が不変の価値を持っていて、それを持っている人が金持ちだったんだ。
でも金や銀は持ち運ぶには不便だから、紙幣や貨幣が産まれてきた。
最初の頃は、同じ価値を持った金や銀が別の場所に必ず保管されていなければいけなかったんだ。
もっともっと前は、お金なんてなくて具体的なものともので交換されていたみたい。
海沿いに住む漁師さんの魚と、山のふもとにする猟師さんの肉とか、田んぼを持っている農家さんのお米とかね。
分かりやすいよね。
この話は長くなりすぎるから、本を何冊か読んでみた方がよいよ。
指標としてのお金
お金は皆が同じ指標で見ているから、お金をたくさん持っている人はたくさんの価値を提供していてたくさんの希望を与えてくれている凄い人だっていう考え方もできるね。
本当にそうかな。
お金を持っている人には二種類いると思ってる。
◆ 人を騙して、人を蹴落として、他の人を不幸にしながらお金を集めていく人
◆ 関わる人を幸福にし、関わる人にもお金が集まるようにしながら、自分にもお金を集める人
広い目で見ると、どちらも同じに見えたりすることもあるけど、本質的には、関わる人の幸せを祈りながら集めたお金の方がきれいだし、そういう人の方が価値のある人間だとパパは思います。
お金を稼ぐというのは、学問として体系ができていて必ず学ぶべきものです。
しかし、お金が集まったからと言って、必ずしも幸せにはなれない。
まず自分の幸せを定義し、周りの人の幸せを考えてみよう。
そうすれば、お金は必ず後から付いてくるから。
そのとき、お金というツールはきっとあまり意味をなさないものになっているかもしれないけどね。
1つ簡単な判断方法があるんだ。
お金を払うとき、お金をもらうとき、
そのときに、お互いに感謝し合える関係になっているか。
お金をもらう人も、支払う人も、気持ちよく「ありがとう(とか、ごちそうさま)」って言いながら、お金の受け渡しを行えているか。
そうなっていないとしたら、それは悪い契約で、そのお金は汚いもしくは無味乾燥したお金だ。
(美味しくない料理が出てきてもお金は払わなきゃいけないけどね、少なくとも今は捕まっちゃうから)
まとめると
◆ お金は夢や目標に向かって活動するために集めるのであって、お金のために働くのは本末転倒です。
◆ お金というツールを使わない生き方もある。
◆ お金という概念自体の変化から目を背けてはいけません。
◆ 正しいお金の使い方・集め方をしましょう。
そうすればきっと、人生はお金に縛られない、楽しく幸せなものになるはずです。
これで、ブログ4本目。
つれづれなるままに書いているので、かなりふわっとした内容になっていて、論理の飛躍が散見されますね。。
まぁ、のんびり修正していこう。
備忘録 2019年1月~2019年3月21日
再来週まで妻子は里帰り中。
リモートでできないことは、もうほとんどないなと感じました。
目の前の山羊を食べる いただきますの意味
山羊牧場で山羊を食べることになった。
いま、里帰り中の妻子。
仕事の休みを利用して、久しぶりに尋ねてみた。
4歳の上の子を連れて、近所に散歩に行くことになった。
近くに山羊が見れる牧場があると聞いたので行ってみた。
車が通れるかどうかの細い田舎道を10分ほど歩いた田舎の中の山の中に、それはあった。可愛い山羊たち。子山羊もたくさんいた。
一通り牧場内を見終わったころ、小さなお店を見つけ、入口に「山羊祭り」という文字を見つけた。
今日は、不定期で開催される山羊肉を食べられる日だった。
珍しいモノ好きの私は、一皿500円の山羊パスタを頼んでみた。
普段、料理を出している訳ではないお店で営業しているからなのか、待てども待てども出てこなかった。
そこで…
娘に食育をすることにした。
◆ いただきますという意味が、命をいただくという意味だということ
◆ 人間を含めた全ての生き物は、産まれた瞬間から生き物(植物を含む)を殺して食べなければ生きられないこと。
◆ 同じく人間を含めた全ての生き物は、死んだら食べられるということ。
◆ それが当たり前でそれが自然なのだと。
◆ 今から来る肉料理は、つい先日までは「さっきまで見てきた山羊たち」と一緒に生活していた山羊を殺して料理したものであること。
などなど。
◆ 牛肉は牛。豚肉は豚。鶏肉は、鶏。卵は、ひよこの元だとか。
※ 私のスタンスは、植物と動物はともに同じ生き物だと考えています。ご了承ください。
食事前後の挨拶「いただきます」「ごちそうさま」や、残さずに食べるということにどういう意味があるのか。
スーパーにきれいに並んでいる肉や野菜が、誰に育てられ誰に収穫されて並んでいるのか。
少しずつ全体像を教えていきたい。
本当に大切なこと、伝えるべきことは何か。
よく、「子ども達に本当に伝えなければいけないことは何なのか」を考える。
会社帰りの家の最寄駅から家に着く間の徒歩15分程度が、基本的に「伝えるべきことは何か」を考える日課のような時間になっている。
過去1年間×15分の時間は、記録に残らずに流れていっているが、これからは少しずつこうやってまとめて、修正・改善を続けていこうと思う。
伝えるべきことはたくさんある。
特に幼少期は、大切なことを体験させ体感として正しいかどうかを判断させる必要があると強く思っている。
今回の「目の前の山羊を食べる」ということも然りである。
チャレンジ精神だとか、いわゆるグリッドだとか、学ぶ姿勢だとか、感謝・畏敬の念などもそうだ。が、今回は割愛する。少しずつ書いていきたい。
その中で今回取り上げたいのは、
① 全体観というもの
② 生態系の概念
③ 大切な人を幸せにするということ
全体観。
それはつまり、時間軸・空間軸で見たときに人間がいかにちっぽけな存在であるかという言うこと。
時間的には、地球が産まれたときは、生物なんていなくてとっても熱かったとか。紆余曲折の中で人類が産まれ、産業が発展し今があること。と言ってもその辺りはしっかりはイメージできないだろうから、スマホがちょっと前まではなかったとか、電気ができたのはつい最近だとか、ひいおじいちゃんの時代は山や川でもご飯を取ってきていたとか。
同時に空間的な視点でいうと、県があり、国があり、地球があり、月があり、太陽があり、銀河系があり。。。まずは、どこが中心だと思う?という話から、月は地球を中心に回っている、地球は太陽を中心に回っているという話をして、実はそれも別の星を中心に回っている。
要は、「今」や「現代」という時間がどれだけ短いもので、「自分」や「自分に見える世界」がどれだけ狭いものかを認識させたい。
「ちっぽけな自分」に対して、未知なる世界というものを感じさせて、そこに対する好奇心や多種多様なものへの畏敬の念・感謝の念を育てたい。
※ 本当は、ここに影響の輪・信頼の輪・人間社会という概念が入ってくると思っているのですが、面倒なので今日は割愛します。
国語・算数・理科・社会なんて、自分で本を読めば理解できると思っている。
外部の世界に対する自分の立ち位置を見誤ったまま勉強しても、何の価値もない。限られた人生の時間の無駄使いだとしか思えない。
だから、学校ではなぜか上手には教えてくれないけど、そういった全体観を小さいころから語りかけていきたい。
生態系。
地球の生態系の話は非常に大切だと思っている。
全ての生き物は、活かされ活かす関係になっていなければいけない。生態系に頂点なんて存在しない。先にも書いたが、食い、食われる関係。それが生態系の全てだ。と思っている。
何か一つの生物が、食われることを放棄したり、食うことを放棄したりすると、全ての調和に影響が出てくることなんて当たり前だと思う。
地球の環境が変われば、絶滅種が出て、適用した新種が出てくることも当然だ。
地球の環境を守るとか歪を是正するとかはまだよく分からない。特定の種を守ろうとする活動に関しても否定はしないが、積極的に応援ができるほど理解が深まっていないのが現状だ。
人間が産まれ、地球の状態が変わった。だから、生き残れる種と絶滅する種が大きく変わった。もしくは、変わろうとしている。そこまでは少しは理解しているつもりだ。
でも、それ自体が良いのか悪いのかは正直まだ分からない。千年後くらいの知恵を持った生命体が判断してくれるんだと思う。AIしかいないかもしれないが。。
ただ、1つ感じているのは、「私の子どもたちが生きていけないかもしれない」という恐怖。種の存続とか興味ない。私の子どもたちという軸で、これはだいぶ問題かもしれないと思う。
そういう意味で、20年後、30年後、40年後の生態系をキャッチアップしておきたい。それを理解するために、20年前、30年前と比較した今の生態系を理解しておきたい。
そして、それらをかみ砕いて子どもたちに伝えておく責任が親である私にはあると感じている。
それらを知る切り口の一つとして、SDGsは非常に面白い。
次の話題に移そう。
大切な人を幸せにするということ。
それは、
自分が影響できる範囲の「この人を大切にしようと判断した」人を徹底的に大切にしなさいということ。
その人は、時間とともに変わっても良いし、波があっても良い。大切にするやり方もたくさんある。ただ、自分なりの方法で良いから、「自分が影響できる範囲内に居る」大切だと思う人を大切にしなさい。ということ。
裏切られても何をされても、その人を信じ愛しなさいと言うこと。
まぁ要は、親が子を思う気持ちのことを書きたいのだ。でも、これは子どもじゃなくても当てはまると思う。
勝手な個人の価値観だが、人は誰かに影響できたという時に特に大きな人生の意味を感じられる気がする。守るべき誰か、大切にすべき誰かが居るということ、彼らに影響できたと感じたときほど、人生に意味を与えてくれた経験が私にないという、ただそれだけの理由だ。
私にとってそれは、第一に私の子どもたちであって、第二に妻である。
だから、私は、
「私の子ども・孫が、大人になったときに、わくわくドキドキするような世界を見せる」ということを人生の目的に掲げた。
それは、世界を変えるというよりは、彼らの世界を見る目をしっかりと誘導していくという意味だ。私の人生は、その一点に集中する。
2017年の夏、上記の結論に至るまでは、全てがふわふわしていた。
逆に上記の結論に至ってからは、全てがそこに集約され、全ての判断が少しずつクリアになってきている。
まだまだ不勉強すぎて分からないことだらけだが、少しずつこんな感じでまとめていけたらと思う。そして、いつか子どもたちにこのブログの存在を伝えたい。
書きながらも、たくさんの論理的な飛躍があることに気付いた。。。
書いてまとめるって大変だな。。それが、2記事目の感想。
少しずつ修正していこうと思った。
ブログを始めるにあたり
2019年2月26日に第二子が産まれた。
本当に嬉しいことだ。
第一子は、現在4歳の女の子。
2人+αの子どもたちに、伝えたいことを少しずつブログにまとめてみようと思う。
そもそもなぜブログを始めようと思ったのか。
- 僕が生きてきて感じたことを、ちゃんと言葉で彼らに伝えたい。
- 言葉で表すのが苦手なので、しっかりと書いて整理したい。
- 考えたことが流れてしまって忘れてしまうのが怖い。
- 伝えたいことが多すぎて整理できない。
要は口下手で、忘れっぽいのです。
何を伝えたいのか。
- 僕が生きてきたそのまま
- 30年間掛けて感じたこと
- 本当に必要な教育とは何なのか
- 宗教や精神世界の大切さ
- 機械や人口知能との幸せな共存方法
- お金とは何か、資本主義とは何なのか
要するに・・・
我が子の世代が大人になったときに、希望とワクワクの詰まった世界を見せてあげたい。
そのための、地球や世界を残し、子どもの世界観を正しく育ててあげたい。
そんな思いで、このブログを少しずつ書きためていこうと思う。
ここに至る経緯…
上に書いた目標は(浅はかながら)2017年7月末から2017年10月末まで3か月という期間を無職で過ごしひたすら「自分とは何か世界とは何か人生とは何か」という問いを私なりに考えてきた結果です。
月に数本くらいを目途に思いつくままに書いては消し修正し、全体として統一感のあるものにしていけたらなと考えている次第です。